真田丸とは
真田丸とは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において徳川方を迎え撃つために真田幸村が築いたとされる出城のこと。ただし、その姿は城という言葉から想像するものとは異なり、土塁や柵、堀で区画されたようなものであることから出城ではなく曲輪(くるわ、と読む)と表現する文献もある。
時はさかのぼり慶長5年(1600年)。天下分け目の関ヶ原の戦いが起きたとき、幸村は、父・昌幸とともに西軍(豊臣方)に味方しており、居城である上田城で関が原に向かう途上にあった徳川秀忠と戦となった。これが9月15日の関が原本戦に秀忠が遅参する一因となったという逸話はあまりにも有名だが、この戦での経験を生かし真田丸の形状を半円形に築いたとも言われている。しかしながら結局、西軍は敗北することになり、幸村・昌幸父子は死罪を命じられたものの、東軍に与していた兄・信之らの助命嘆願により、はじめに高野山に、その後九度山への配流という形で命を救われることになった。
配流となって13年あまりが過ぎた慶長19年(1614年)。いよいよ、豊臣方、徳川方が一触即発の状態となり、豊臣方は書状や密使を使い諸国の浪人衆を集め始めるが、そのなかの一人が九度山に幽閉されていた幸村であった。幸村は、この知らせを受け九度山の脱出を決意し、大坂城への入城を果たす(この脱出については、警備役だった村民らを宴会に招き泥酔させた、幸村に好意的であった村民が知ってて見逃した、或いは夜中にこっそり抜け出した、諸説ある)。ときに慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣開戦の1ヶ月ほど前のことであった。
そして、真田の名のおかげもあり、軍議に参加できることとなった幸村は、城から出て積極的に野戦を仕掛けるべしと主張、これに同調する武将もいたが、実質的な大坂城主的存在であった淀殿らの主張が優先され籠城策を採ることとなった。それならば、と幸村は大坂城を防御するうえで弱点となるのは平坦な台地続きとなっている南方であると見抜き、ここに出城を築く許しを得て、自らその出城で指揮を執った。これこそが真田丸である。
慶長19年(1614年)12月4日、徳川方の先制攻撃をきっかけとして始まった戦は真田丸の戦いと呼ばれ、幸村は徳川方に大きな打撃を与えることに成功したものの、最終的に大坂冬の陣は両軍が和議を結ぶ形で終結し、その条件に従い真田丸は破壊されることになった。現在、その跡地には三光神社が建立されており、そこには真田丸と大坂城を結んでいたとされる「真田の抜け穴」跡がある。現在入り口は真田の六文銭を掲げた鉄の扉で閉ざされているが、1年に1日だけ、真田祭りの日(例年11月第一日曜日)には開放される。
なお掲載している画像は、天王寺 真田幸村博実行委員会様よりご提供頂いたもので、真田丸復元ジオラマを撮影したものである。このジオラマは大阪市天王寺区内を中心に巡回展示されており、2016年1月20日(水)までは大丸心斎橋店に展示されるとのこと。開催時間や今後の巡回展示スケジュールなどは、天王寺区役所ホームページで確認できる。
真田丸復元ジオラマ
大坂城外堀〜真田丸〜茶臼山までをひとつの戦場として再現したジオラマで、大きさは、縦180cm×横120cm×高さ(設置台を含む)100cm。2015年5月1日(金)、近鉄電車「大阪上本町」駅にて執り行われた除幕式にてお目見えとなったのを皮切りに、以降、巡回展示されている。
- 監修
- 千田 嘉博(せんだ よしひろ)氏…奈良大学 学長、文学博士
城郭考古学を専門とし、国内各地から依頼を受けて、数多くの城跡や遺跡の発掘調査と整備のプロジェクトに参画。 - 制作
- 関本 徹生(せきもと てつお)氏…京都造形芸術大学 教授、造形作家
2009年に滋賀県の小谷城の大型ジオラマの作成。また最近は、多くの産官学携事業を手がける。
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※ 「真田幸村の生涯」写真提供:上田市立博物館蔵、「大阪エリアのゆかりの地」写真提供:©(公財)大阪観光局、「群馬エリアのゆかりの地」写真提供:ググっとぐんま写真館