真田幸村の生涯
略歴
1567 | 真田昌幸の次男として生まれたとされる 1570年誕生という一説もあり |
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1582 | 4月12日 主家・武田家滅亡 |
1585 | 7月15日 昌幸が上杉景勝と同盟を組む 幸村は景勝に人質として送られる |
1590 | 昌幸が羽柴秀吉と同盟を組む 幸村は人質として大阪城に移る |
3月 小田原城征伐に参戦 | |
1600 | 9月6日 第二次上田城の戦いで、徳川秀忠を破る |
9月15日 関が原の戦いにて敗北 紀伊国にある九度山に配流 |
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1611 | 6月4日 昌幸、病没 |
1614 | 10月 大阪城に入城 大阪城玉造口に真田丸を築く |
11月15日 大坂・冬の陣開戦 幸村、真田丸にて徳川軍を退ける |
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12月20日 豊臣軍、徳川軍が和睦 | |
1615 | 4月26日 大坂・夏の陣開戦 |
5月7日 家康の本陣へ突入、討死する |
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1567 真田昌幸の次男として生まれたとされる
1570年誕生という一説もあり -
1582 4月12日 主家・武田家滅亡 1585 7月15日 昌幸が上杉景勝と同盟を組む
幸村は景勝に人質として送られる1590 昌幸が羽柴秀吉と同盟を組む
幸村は人質として大阪城に移る3月 小田原城征伐に参戦 -
1600 9月6日 第二次上田城の戦いで、徳川秀忠を破る -
9月15日 関が原の戦いにて敗北
紀伊国にある九度山に配流1611 6月4日 昌幸、病没 -
1614 10月 大阪城に入城
大阪城玉造口に真田丸を築く -
11月15日 大坂・冬の陣開戦
幸村、真田丸にて徳川軍を退ける12月20日 豊臣軍、徳川軍が和睦 1615 4月26日 大坂・夏の陣開戦 5月7日 家康の本陣へ突入、討死する
旗印・家紋の六文銭とは
六文銭の由来は諸説ありますが、一般的には三途の河を渡るための渡し賃とされ、武士にとっては「決死の覚悟」という意味が強かったものとされています。また、六文銭は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏の家紋の一つとされています。
他には、真田昌幸、幸村父子の約300人の軍勢と北条氏の大軍四万五千と対決した際に、幸村は無紋の旗に北条方の重臣松田尾張守の旗の「永楽通宝」の紋を描き、六本の旗をつくり六隊に分け敵陣に闇討ちをかけ、北条氏は松田が謀反を起こしたと大騒動となりました。昌幸は幸村の行動を称えて定紋を六文銭とすることを許した。という説もあります。
真田幸村は、永禄10(1567)年に真田昌幸の次男として生まれたとされる(他説あり)。本名は真田信繁といい、直筆の書状にも信繁の名前が書かれている。「幸村」という名前の正式な由来は分かっていない。しかし後世の史書には、この「幸村」の名前が残っている。幸村が生まれた真田一族は真田本城を本城として発祥、人々は真田氏館という居館に住んでいたとされる。
幸村は幼少期、父の昌幸が攻略した沼田城ですごしていたという記録がある。のちに昌幸が上杉景勝に服従する際、幸村は景勝へ人質として送られ、海津城(松代城)に置かれた。その後、昌幸が豊臣秀吉へ服属したので、幸村は再び人質として大坂に移った。1590年3月、幸村は小田原城攻略に参戦。これが一般的に幸村の初陣とされている。幸村は石田三成のもと忍城攻めに加わり、大谷吉継らと協力して戦った。また同年に、大谷吉継の娘を正室として迎えている。
慶長3(1598)年に秀吉が死去する。翌年には前田利家も亡くなったため、政治の均衡が大きく崩れてしまう。三成と家康がにらみ合うことに。全国にいる武将たちは三成が率いる西軍と、家康が率いる東軍に分かれていった。当時、幸村は昌幸や兄の信之と徳川秀忠の配下にあり、会津征伐に向かう途中であった。三人は佐野の犬伏で真田家存続のために話し合い、結果的に幸村は昌幸と共に西軍に、信之は東軍につくこととなった。どちらが勝っても、真田家は生き残る計画だ。幸村は昌幸と上田城へ戻り、篭城を始める。
慶長5(1600)年、関が原の戦い直前。上田城に篭城していた幸村は、関が原に向かう途中である数万兵の徳川秀忠軍を挑発し、迎え撃つ。このとき秀忠は大軍を前軍と後軍に分けていたため、幸村はそこに目をつけた。秀忠軍の前軍をあえて上田城付近まで攻め込ませて本陣を手薄にさせると、あらかじめ用意していた伏兵で本陣を襲った。それだけではなく、わざと堰を切って神川を増水させ、あとに続くはずだった後軍を足止めしていた。幸村の目的は秀忠を関が原の戦いに遅延させることあり、それを見事に達成する。しかし関が原の戦いでは東軍が勝利したため、父子は罪人として高野山・蓮華定院に蟄居となり、のちに九度山にある善名称院に移った。翌年、昌幸が病死してしまう。
1614年の春、豊臣秀頼側から「徳川家を倒すために協力してほしいという」内容の密使が来たため、監視の目を欺き九度山を脱出、大坂城に入城する。幸村は戦に備えるために、大坂城の唯一の弱点といわれていた玉造口に真田丸を築き、さらには真田丸と大坂城を繋ぐ「真田の抜け道」も作った。12月4日、20万を越える徳川軍が大坂に押し寄せた。幸村は巧みに敵兵を真田丸付近までおびき寄せる。そこへ一斉射撃を浴びせ、さらには少数隊で突撃。約1000人もの敵兵を討死させた。幸村は誰1人として大坂城に侵入させなかったのだ。のちに秀頼、家康が和睦したため、真田丸は大坂の外堀と一緒に埋められてしまった。外堀を埋められた大坂城は丸裸となってしまう。このとき、幸村は家康から幕府側につくよう2度誘われたが、幸村はかたくなに拒否した。
翌年、家康が秀頼に無理な要求を突きつけ、秀頼がこれを拒否したために大坂・夏の陣が勃発する。幸村は天王寺口に布陣。正面から押し寄せる敵軍に突っ込み激戦を繰り広げる。混戦の中、幸村は「浅野長晟が裏切った」という虚報を流して敵軍を混乱させ、隙をつくった。20万を超える敵軍を死にもの狂いで突破すると、家康の本陣へ突入した。この攻防を2度続けた幸村は、家康軍を約12キロも後退させる。だが3度目の突入で幸村はついに力尽き、敵兵の攻撃によって討死した。この獅子奮迅の戦いは、のちの世に「日本一の兵(つわもの)」と称されて語り継がれることになった。
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