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坂本龍馬の生涯と出会った人々

西暦

坂本龍馬の年表

 

1835年

11月15日 高知城下の郷士坂本八平の次男として誕生

 

1853年

4月頃 江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門

ペリー来航時、土佐藩臨時御用として品川沿岸警備

 

1855年

12月4日 父、八平死去

 

1856年

8月20日 再び土佐藩臨時御用として江戸へ出立する

 

1861年

9月 土佐勤王党に9番目に加入

 

1862年

10月頃 勝海舟を訪問し、その場で弟子入りする

 

1863年

10月 海軍塾塾頭になる

 

1865年

5月 薩摩藩の援助を得て、亀山社中を設立

 

1866年

1月23日 伏見寺田屋で奉行所役人に襲撃される

 

1867年

3月5日 西郷らの勧めで、お龍と共に鹿児島へ出立

4月 亀山社中を改組して海援隊と称し、海援隊長となる

11月15日 近江屋で慎太郎と共に襲撃を受ける龍馬は即死

 
 

坂本龍馬の生涯

 坂本龍馬は、天保6年(1835年)11月15日、土佐藩郷士・坂本八平と幸の次男として、高知城下で生まれる。八平は下級武士であったが、本家は才谷屋という豪商で、龍馬は裕福な幼少時代を過ごしている。龍馬が後世に名乗る「才谷梅太郎」という変名は、この本家の屋号から来ている。
 嘉永6年(1853年)4月、北辰一刀流千葉定吉道場に入門するために、初めて江戸に出立。この年の6月には、ペリーが来航しており、龍馬は土佐藩臨時御用として品川沿岸の警備についている。同年12月からは佐久間象山の私塾にも通い始める。
 

一度高知に戻った龍馬は、父の死後、安政3年(1856年)、土佐藩臨時御用として再び江戸へ。千葉道場での剣の修行も続け、北辰一刀流の免許を得る。安政5年(1858年)に帰国した龍馬は、文久元年(1861年)武市半平太が結成した土佐勤王党に参加し、翌2年(1862年)には土佐藩を脱藩する。

同年秋に江戸にやって来た龍馬は、勝海舟の弟子となる。龍馬が幕臣の勝に会えたのは、福井藩前藩主・松平春嶽の紹介状があったからだが、その春嶽には龍馬は突然会いに行っている。春嶽や勝、さらには西郷隆盛桂小五郎らが、一介の脱藩浪士である龍馬と交流したのは、龍馬の人間的な大きさに魅了されたからだ。
 その後、勝の力添えにより、土佐藩主・山内容堂から脱藩の罪を許される。文久3年(1863年)10月、勝が開設した海軍塾の塾頭に就任。また、勝の使者として福井、長崎、熊本などを訪れていたほか、西郷隆盛とも面会している。
 元治元年(1864年)、新撰組が土佐・長州の尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件の報復として起きた蛤御門の変(禁門の変)に、塾生が多数参加していたことの責任を問われ、海軍塾は事実上閉鎖となってしまう。この一件で、龍馬は勝の庇護を受けられなくなるが、西郷の薩摩藩に保護されることとなる。大阪・京都の薩摩藩邸や鹿児島の西郷邸で生活をしながら、三条実美、桂小五郎(木戸孝允)と面会し、さらに同志・中岡慎太郎らと共に、薩摩と長州を同盟させるべく行動を開始。
 
 慶応元年(1865年)には、薩摩藩の援助により、長崎において亀山社中を設立。これは貿易結社であり、日本初の株式会社とも言われている。亀山社中により海外との間で貿易を行う一方、龍馬と慎太郎は薩長同盟締結に向けて行動を続け、慶応2年(1866年)1月21日、京都で薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎との面会を斡旋、薩長同盟を締結させている。龍馬はその2日後の23日、寺田屋にいるところを伏見奉行所役人に襲われるが、結婚したばかりのお龍の機転により、一命を取り留める(寺田屋事件)。
 
この事件で傷を負った龍馬は、西郷の勧めもあり、お龍とともに鹿児島を旅行する。これは日本における最初の新婚旅行と言われている。
 同年6月、蛤御門の変を謀反と捉えた幕府と長州の間で戦争が勃発(第二次長州征伐)、龍馬ら亀山社中は長州側に立って参戦。翌3年(1867年)1月、長崎にて土佐藩士・後藤象二郎と面会し、土佐藩との関係を修復。4月には、亀山社中を海援隊と改称、同時に中岡慎太郎は陸援隊を組織する。この4月には、海援隊のいろは丸が瀬戸内海で紀州藩の明光丸と衝突して沈没(いろは丸事件)。龍馬はいろは丸には3万5000両分の武器や4万7000両分の金塊を積んでいたと主張し、徳川御三家である紀州藩から7万両もの巨額の賠償金を得ることに成功する。
 

 その後、長崎から船で後藤象二郎と共に江戸に上がった龍馬は、新国家の基本方針とも言える「船中八策」を策定。これに基づき、後藤象二郎が土佐藩主・山内容堂を説得、土佐藩は、将軍徳川慶喜に建白し、大政奉還が実現する。その後も龍馬は、新政府樹立へ向けて行動を続けるのだが、11月15日、京都の近江屋で中岡慎太郎と会談中に何者かに襲撃され、龍馬はほぼ即死、慎太郎も2日後に死亡。奇しくも、11月15日は、龍馬の誕生日であった。犯人は確定されていないが、現在では京都見廻組によるものとの説が有力とされている。

 
 
 
 
情報提供:イベントバンク
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